アウル税理士法人への歩み―佐藤等の場合

会計を知るきっかけ

公認会計士という職業を知ったのは高校時代です。今考えるとサラリーマンとして勤める父の会社が経営合理化(いまでいうリストラ)がきっかけだったと思います。ボンヤリですが頭の中に「サラリーマンって大変だな」「資格を持っていた方がいいのかな」…と調べていた時に公認会計士を知り、小樽商科大学を受験することに(本当は会計科がある大学に行きたかったが浪人は許されず)。

大学時代

会計まっしぐらと思いきや、大学ではスキー部に入って集中してスキーに取り組み準指導員を取得しました(4年で400日滑る)。周りからは「会計の道は諦めるんだろうな」と思われていたはずです。4年生の夏休みに実家(函館)から電話があり、北海道拓殖銀行(13年後に経営破綻)への就職を進める先輩から電話があったことを伝えられました。「卒業後は、東京の専門学校進み会計士の受験勉強をする」と告げると電話で怒鳴られたのを鮮明に覚えています。どうも私の人生は、経営の破綻と関係があるらしいと思わされます。

会計は、在学中に何とか日商級に合格。ゼミは管理会計のゼミでした。ゼミではあまり勉強した記憶はありません。卒論は「不確実性下におけるCVP分析」。この部分だけ深く学んだことが、後に役に立ちました。公認会計士の2次試験と、3次試験に出たからです。なぜか試験運は生涯をとおしてとてもいいのです(笑)。「マネジメント会計」に取り組もうと今、思うのは、管理会計という領域への違和感からです。問題意識の源は、大学時代にあるのです。

会計士受験時代

22歳4月、上京して公認会計専門学校に入学。試験は7月なので1年半後に初受験することにしました。当時、合格には最低2500~3000時間費やす必要があるといわれていました。1日正味10時間机に向かっていました。父のリストラで経済的に大変な時期でしたが、もう一年の約束で何とか翌年合格。25歳になっていました。やっと社会に出られると思いました。ただ、もし落ちていたらとの思いで通っていた専門学校に就職し、「監査論」を1年教えていました。未来を見通せない長く精神的にもつらい3年半の東京時代を終え、札幌へ。26歳になっていました。

監査とコンサルの時代

その後、札幌の監査法人に入って監査業務に就きます。当時は、まだよき時代で5時には仕事が終わっていたので、終業後は勉強を兼ねて先輩会計士などと監査でもない税務でもないコンサルティング領域の仕事を始めました。今でいうダブルワーク(複業)ですね。相続対策、人事評価制度構築、上場準備など貪欲に取り組みました。終電で帰る日が続き、時には12時から飲みに行ったり…体力が余っていましたね(笑)

私が会計士業務を始めた頃(昭和62年)は、バブル経済の真っただ中でした。本業以外の資産売買で利益を稼ぎ出す「財テク」という言葉が大はやり。ところが平成元年(1989年)の年末に日経平均株価終値の最高値38,915円87銭を付けたのをピークに年初から暴落。平成2年10月1日には、日経平均は2万円割れ。バブルは崩壊しました。

バブル崩壊期に方向転換

平成2年、29歳。バブル崩壊の年に公認会計士事務所に個人事務所として登録し、私の個人事業主の時代が始まりました。パートタイマーとして監査法人で仕事をし、監査責任者として働きながらコンサルティング業務を行う時代が始まりました。ちなみにこの年、入籍しプライベートも新しいステージに立ちました。

1996年に税理士登録し、道銀ビルに移転し、法務・会計プラザに参加しました。この頃、破綻企業を再生させるため民事再生法などの業務を数多く手がけました。30歳台で北海道を代表する企業の再生業務に参加できたのは、法務・会計プラザという場に身を置き、法律と会計という二つの領域をシームレスに対応できる体制があったからだと思います。

多くの経験を積み、迎えた1997年秋。北海道拓殖銀行が経営破綻。最下位とはいえ都銀の経営破綻という未知の領域を進むことになります。この年、日本はバブル崩壊にともなう不良債権問題等で長銀、日債銀、三洋証券、山一證券などの大手金融機関が経営破綻するという嵐の中にありました。北海道経済が何年にも渡って凍てつきます。

バブル崩壊期に私は、一つの決断を下します。コンサルティングをやめ税務会計業務に専念しよう。きっかけはあるコンサルの失敗です。買収した企業の立て直しの成果が出ない…。人心が荒れ大変な現場でした。毎日、家をでると吐き気が襲ってくる…今思えば過度のストレスの中にあったのです。「何か足りないものがある」…との思いはしばらく消えませんでした。

 

法務・会計プラザへの参加のきっかけ

法務・会計プラザに参加するきっかけは、手稲駅前の法定の都市再開発事業に参加した際に、一緒にお仕事に関わった司法書士法人第一事務所の田澤泰明先生よりお誘いをいただいたご縁です。ありがたいことに弁護士の太田勝久先生とともに2年間もお誘い続けて頂き、ようやく1997年に参加することができました。後日、諦めずお誘いいただいた理由をお聞きした際に「変わった会計士だから」と言われ、大変うれしく思ったことがあります。法務・会計プラザ参加を機に私たちの事務所の「12年ビジョン」がスタートしました。

学びの場との出会いと行動

1999年秋。弁護士の太田先生のもとに一人の保険の営業職の男が訪ねてきます。のちにアウル税理法人結成のきっかけを作る高塚伸志氏です。太田先生に呼ばれ初対面の挨拶もそこそこに来週の異業種の勉強会参加の打診を受けます。「行きます」。即答して参加した場には、後に私の大学院の指導教官となる瀬戸篤先生も参加していました。

そのご縁で2000年4月に大学院(小樽商科大学)に進むことになります。電力会社を辞め大学の教官となった瀬戸先生から「君たちは北海道のために何をすべきか」と2年間問い続けられます。当時、拓銀破綻後、塗炭の時代を送っていた地域経済再生に何ができるかという視点を徹底的に鍛えられます。当時39歳の私は、恥ずかしながら初めて社会のために何ができるかという真の働く理由を考え続ける日々を送ることになります。それは、単なる専門家の領域を超えた社会貢献を問うものだったのです。

大学院修了後、始めたのがナレッジプラザという学びの場です。学びの力で地域に力を取り戻そう。それが起業の目的でした。毎月の勉強会のほか、今では、ドラッカーの読書会を全国20か所以上で行われる事業体となっています。読書会は、大学院時代に指導教官から伝えられた伝統的方法である「読書会」のスタイルを踏襲しています。偶然、大学院時代の読書会に読んだいくつかの書籍の中にドラッカー教授の著作もありました。「足りなかったものはこれかもしれない」というかなりの確信が芽生えました。どうせ学ぶなら皆で…ということで2003年4月から経営者などに向けた読書会を始めることになります。

読書会や経営塾21Nextなど学びの場で経営者などとともに学びともに成長したいとの思いは、あの苦しかったコンサルの失敗から得られたものです。働く者が学ばずして組織の成長はないという思いは、20年を経て確信に変わりつつあります。

法人化への思い

1999年秋に目の前に現れた高塚氏。そのご縁以降、「出逢い、気づき、学び、そして行動」することを共通の信条としてともに歩んできました。2017年、向こう12年の新たなビジョンを決めたときに「組織の法人化」を計画の中に明示しました。お客様の永続性を高めることを前提にすると、事務所の永続性も高める必要があるからです。このような状況を高塚氏に伝えていたこともあり、今回の事務所統合の話へと進んでいったのです。

開業してから30年間、多くのお客様とともに成長してきました。振り返ってみれば、高度成長期に育った私たちの世代は、バブル崩壊後によく言われた「失われた10年」「失われた20年」の中で仕事をしてきました。大企業は潰れないという常識はすでになくなり、どんな企業でもその存続に覚悟と工夫が必要な時代にいます。「企業の寿命は30年」と言われたバブル崩壊前ですが、すでに平均寿命は20年を切っていることは確実です。そのために私たちは、学び続けていかなければとの思いを新たにしています。私たちは、お客様それぞれの事業に活かすべき情報は何かという観点から、会計情報に限定せず、マネジメントに必要な情報を提供していきたいと思います。お客様とともに学び成長し、組織の継続性を高めたいと決意しています。

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代表社員 佐藤 等

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